「狂った/苦しんだ人こそが偉大な仕事を成し遂げる」という物語には、感情的な切迫感が必要なんだ!と読み取れそうなロマン主義的な危うさがある。けど、制約があるからこそ最適化or死になり、その生き残りが偉人と呼ばれ、物語が作られた のかもしれない
なんだかんだで、苦しんでいなければ、狂っていなければ、貧しさが根本に染み付いていなければ、どんな学びも他者のために活かすことはできない 最近そんなつまらんことを頻繁に思ってしまう
生成AIの「絵」はどこかの誰かの「造形思考の形跡」を継ぎ合わせた、いわば勝手に作られた死体アートみたいなもので そこに宿る無機質さを好む人も多いけれど、絵を描く自分から見るとあまりに猟奇的で、それをボカロの「透明さ」と並べて語るのは無理がある
YouTubeショートはもう一種の社会運動が高速循環する場になっている 音・声・映像・字幕を駆使した強力な誘引・印象操作、SNSなんかよりもずっと匿名に近い投稿者、詐欺師の観察対象として恰好のコメント欄、そこでの理性的な少数意見の奮闘
競争意識ドリブンの教養主義は、その競争空間に適応しづらい様々な人…様々な学問的センスの持ち主を排除し、集団の同質性を高める可能性が高い(かつ、そうなっても気付くことが難しい)ので 結局は全体のレベルを低下させる要因になると思う
bskyは反差別という名の能力主義が、YouTubeショート文化圏には反暴力という名で排外主義が(もはや差別と認識できないようなムードで)共有されていて、Xはその中間だから荒れている印象が強くなる
日本野鳥の会のイベントは招待されて出展したのだけど、参加者4人で、みんな鳥の話してて、幸せな空間だった ああいうイベントもっと出たい
あす7/13(日) 、仙台の夢メッセみやぎ で開催される『みちのくコミティア14』に出展します ブースは I-12 adv-kikaku.com/comitia14/ アクリルパネル数点、ポストカード、とりシール、画集があります
死にたい気持ちがずっとあるくせに風景画ばかり描いてそういう需要が出来てしまうから、自縄自縛で自分の居場所がなくなっていく 暗い絵を描いても自分と紐づくアカウントに投稿する気になれない
生きる意味を問うために生き続けるのだ、と言われても古典的でフーンと思ってしまうけど、生き続けたら結局それくらいしかなくなる気もする