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佐藤弓生『短歌百物語』。いかにも怪談話ってのから幻想小説風のものまで、百話のバリエーションの豊かさも怖くて楽しい。端を三角に折られたページ、ループし続ける花見、話しかけてくる薔薇たち、花鋏を手に語る住職、真横から見られたくない観覧車、女に花びらが降りかかるだけのフィルム…。 特にストーリーが好きだったのは、亡き妻のクローゼットから見慣れない男物の礼服を見つける話、林檎料理を出す元童話作家の老婆の話、我が子を風呂で煮て殺そうとする鬼の話、夜中のタクシーで一人とも二人ともつかない客を乗せる話。 ちなみに、百話目の短歌の欄は空欄になっている。どうか、ゆめゆめ最後の蝋燭を吹き消されませんように。

佐藤弓生『短歌百物語』。掌編小説としての「語り」の巧さにも惹かれる。書き出しからいきなり世界にポンと置かれて、一行ごとにずるずると怪異の方へ引き込まれていく感覚があるのよ。 例えば一話目は、「あなたのことは忘れました。」と始まり、「腕はあなたを忘れないでしょう。/私には。腕を止めることはできません。」と終わる。「忘れる」が「忘れない」にくるっと反転する怖さ。ちなみに、末尾に置かれた短歌はこれ。 ●腕を植えて生き直せれば永遠の植物としてあなたを愛す 東直子

佐藤弓生『短歌百物語』、読了。見開き単位で怪談というか怪異譚と短歌一首が収められていて、それが百話集まった本。短歌をもとに作られた怪奇幻想小説集であると同時に、怖い短歌のアンソロジーとしても読める。滑稽で不気味なこんな歌とか。 ●顔のない男が池をのぞきこみ幻の髪をととのへてゐる 三宅勇介 短歌は、目の前の世界の違和感を詠むことが多いので、そこから怪異譚へとスライドさせやすいのかもしれない。 ●もう一人そこにはをりき永遠に記念写真に見えぬ写真家 香川ヒサ 例えば、この歌は単体で読むとただの事実だけど、怪談にするするっと広がっていきそうでしょ。

キム・キョンファ『メガホンとペンライト』。「長い革命」という概念が出てくる。「文化研究者R・ウィリアムズが説いた「長い革命」とは、一夜にして権力が入れ替わる劇的な政治的出来事のみを指すのではなかった。むしろ、教育、文化、そして日常のコミュニケーションを通して、人々の意識や社会が長い年月をかけて変容していく、その不断のプロセスこそが、民主主義の本質的な歩みであるというのだ。瞬間的な政治変化に一喜一憂するのではなく、この「長い革命」の途上にあるという時間軸を持つことは、現代市民社会の役割を捉え直す上できわめて重要である」。そう、このデモは、遠くのどこかやいつか未来のデモにつながる可能性があるのだ。

キム・キョンファ『メガホンとペンライト』。キャンパスに貼られたデジャボ(壁新聞)の話も良かった。SNSで話題となったあるデジャボは、「お元気ですか?/昨日、たった一日のストライキで、数千人の労働者が職を失いました」と始まり、労働環境の悪化と批判の声への弾圧について語られ、最後にこう締め括られる。「もし、あなたがお元気ではないのなら、叫ばずにはいられないはずです。その内容が何であれ、です。だから、最後にもう一度、尋ねたいです。/皆さん、お元気ですか?」。こんな時代にどうして「お元気」でいられるのでしょう、というこの強烈なメッセージによって、政権批判がミーム化していったそうだ。

キム・キョンファ『メガホンとペンライト』。非常戒厳反対デモでは、「自由発言台」というステージが設けらていて誰でもマイクで話すことができたそうだ。そこでは、戒厳令とは直接関係がない、労働現場の女性差別やLGBTQや障害者への偏見、というイシューも語られたのだとか。いやあ、興味深い。これは、普段声を届けづらい人たちが遮られることなく声を上げられる、ってことにつながるわけで、デモ参加者に女性が多かったというのも納得できる。不公正は構造の問題であり、だからこそ様々なイシューが紐づいてくる。それって、ジェイク・ホール『みんなこうして連帯してきた』でも語られていたことでもあるね。

キム・キョンファ『メガホンとペンライト 韓国の「騒ぎながら民主主義」』、読了。韓国のデモの歴史を参照しながら、現在のペンライトデモに至る背景を読み解いた本。まず、法律による「制度としての民主主義」の他に、社会での実践を通した「営みとしての民主主義」があるとして、デモは「民主主義を支える重要な実践」だと示している。民主主義を最初から完成したものとして捉えてはいけない。民主主義は常に途上にあるし、実践を怠ると後退してしまう。表現の自由は行使しなければ狭まっていくし、311後に柄谷行人が言っていたように「デモをすることで、デモをする社会をつくれる」のだ。

熊本の地震を受けて内閣や防衛省から発信されるSNSの写真が、よく企業パンフに載ってる「会議しているテイの広報写真」みたいで醜悪だと思ってたら、ついに被災地訪問のPR動画めいたものまで出てきた。感覚がズレているというか、国民を舐めているというか、他者性を欠いた承認欲求の塊というか。アベノマスクくらい、グロテスク。 官邸のPR動画を見ても被災地のことはまったくわからない。被災の現場はチラっとしか映らず、高市早苗しか映ってないから。避難所の戸を細く開けて声をかけるなら、なぜ中の様子を見せない。上空から手を合わせるなら、なぜ倒壊した家屋を写さない。BGMを流すなら、なぜ窮状を訴える声を流さない。

「人が堕ちていく様を見たい」ってな感情を刺激するのは、障害を見世物として捉えてるってことじゃん。だから、辻愛沙子さんが「人の悪意をバイラルしていく作品ではなく、こういう作品がもっともっと売れて広がって欲しい!!!」として、泥ノ田犬彦『君と宇宙を歩くために』を紹介してたのに、深く共感をした。そりゃ世の中には悪意だってあるよ。だからこそ、そんな社会でどうやって「命綱」を確かなものにしていくかを描いた、こういう作品が必要なんだ。

『スパイダーマン ブランド・ニュー・デイ』を観てきたよ。ああ、しみじみよかったなあ。公開直後なので詳細は書かないけど、冒頭、「歩きスマホはやめろ、特に高所では!」と余計なことが気になった。

こちらは、ビー・ガン監督の新作。これもすごそう。ビー・ガン作品は、とろとろとまどろむような夢幻的なタッチがすごく気に入っている。というか、ゆるゆると街を彷徨うだけで満足なんだけど、今回はどうなんだろう。日本の公開は秋かな。↓ youtu.be/SqaY-FMxDFU?...

【正式預告】《狂野時代》(Resurrection) 11月27日 疑幻似真

YouTube video by 安樂影片 Edko Films Ltd.

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マヒトゥの性加害、かなりキツいというか、性根を入れ替えてほしいレベル。擁護の声がほぼ出ていないというのが、わずかな救いというか。親しかった人やファンが、引き裂かれるような悔しさや割り切れないモヤモヤを抱くのも当然だよなとも思う。さほど熱心なリスナーじゃない俺でもくらうもん。 マヒトゥの個人の問題であって左派右派の問題じゃないと思う一方で、多くの男性が内面化していて、それゆえに甘く見ている攻撃性の問題ではあるんじゃないかと思う。だから、こーゆーときに簡単に自分を切り離してわかってる側に置くんじゃなく、自分もそうした攻撃性を抱えた側にいるってことに目を向けたい。

7月は『松平修文全歌集』をちまちまと読んでいた。アンソロジーで名前を見たことはあるけど、歌集としてまとめて読むのは初めての歌人。文庫サイズで、1900年から2000年までの5冊の歌集に加え、俳句や詩も収録されている。通して読むと、強烈な個性があるね。 ●難破すと知らせのありし海域に入れば数しれぬ林檎もみあふ ●湖底寺院の僧侶たち月夜の網にかかり朝の競り市に運ばれてゆく ●霧を固めて作つた菓子のひと切れをすすめられをり 深更(よは)の茶房に

マッシヴ・アタックで、ソテジ・ワ・アイドゥルについて知った人におすすめしたい本が、山本 浄邦『K-POP現代史』。K-POPのルーツをたどり、音楽が国家権力に抗ってきた歴史がBTSまで連なっていることを解き明かす。「闘う大衆歌謡」なのだと。あと、光州事件については映画『タクシー運転手』やハン・ガン『少年が来る』を。

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「音楽に政治を持ち込むな」てなことを言う人はずいぶん減ったとは思うけど、マッシヴ・アタックはめちゃめちゃポリティカルで、ふわっと「戦争反対」を叫ぶんじゃなくて、名指しでいくからね。プーチン、トランプ、ネタニヤフはもちろん、パランティア、プリゴジン、光州事件などなど。それと同時に、構造への批判も忘れないのも重要。名指しをするのには、ちゃんと裏付けとなる理由があるのだ。

フジロックのMassive Attackを配信で見てたんだけど、すんごかった。バックスクリーンにニュース映像や映画などの映像コラージュと日本語のメッセージを次々流しながら、今ここはすでにディストピアなのだ、ということをこれでもかと突きつけてくる。パランティア、ガザ、ICE、抵抗の歌としてのK-POP、ビュー稼ぎのインチキゴシップ、「仮想現実は鉱物でできている」まで、ポリティカルなメッセージが、憂鬱の中で時折きらめく光のような音と混ざり合い、圧倒された。配信でこれなんだから、現地で踊りながら見たらもっと感動しただろうな。

昨日は、『ブリング・ハー・バック』と『オブセッション』をハシゴするつもりだったんだけど、『ブリング・ハー・バック』を観たらあまりにも怖すぎ高カロリーでヘトヘトに。ハシゴはあきらめた。しかし、今年の夏は気になるホラー映画が多いなあ。もうすぐ公開の韓国のホラーも面白そうだし、9月には『バックルームズ』がある。

実家に帰るたびに、夏物を高いところから出したり、クーラーの掃除をしたりしてるんだけど、今日は、壊れたBlu-rayプレイヤーを新しいものと取り替えてセッティングし、母親にfirestorageの使い方を教え、無くした鍵の代わりに新しい合鍵をもらってきた。雨は上手いこと避けられた。

エドワード・ヤン監督『海辺の一日』。髪型の変化や生け花、つながらない電話やすり替わる手紙、ボールの壁当てや二人で吸う煙草。そうしたものから、コミュニケーションやその断絶が描かれる。そして何と言っても、素晴らしい画面構成。診療所の廊下を捉えた縦の構図や、ここぞという場面でのシルエット、海上と波打ち際と離れた砂浜の三箇所の人物配置など、めっちゃ映画的。若きエドワード・ヤンの才気がキラキラしている。

エドワード・ヤン監督『海辺の一日』。エドワード・ヤンの長編デビュー作。かつて友人同士だった女性二人が再会し、「どうしてた?」ってな話をするところから始まる。ところが、このあと回想シーンとなり、回想内で回想し、回想主体が変わり、時間軸が行きつ戻りつするという複雑な語りになっていく。なので、最初は誰が誰やら混乱し、回想の迷路で迷子になってたんだけど、語りの構造がわかってきてからはぐぐっと入り込んでしまった。夫婦のすれ違いというメロドラマチックな話に、根深い家父長制や急激な経済成長を遂げる台湾の姿が浮かび上がってくる。エドワード・ヤン作品の恋愛は、いつだって時代に翻弄されるのだ。

ハサン・ハーディ監督『大統領のケーキ』。何よりも胸が痛むのは、大人が子供を守らないこと。権威主義のピラミッドでは、学校の教師は子供に対して小さな独裁者のように振る舞う。さらに、貧困と食糧難に追い詰められた大人たちは、子供より自分を守ることを優先するし、子供を食い物にしようとする。あと、フセインを批判する人物や独裁に抗う人物が、一切出てこないというのも特徴的だ。誰もがなんとかこの社会に順応しようとしている。それが子供に何を強いるのか。少女を追い詰めるのは大人たちのちょっとした冷淡さなんだよ。大人がその責任を放棄してしまう社会は、子供が子供のままでいられない社会だ。

ハサン・ハーディ監督『大統領のケーキ』。アメリカによる空爆が散発する1990年代を舞台にしたイラク映画。フセイン大統領の誕生日を国中で祝うため、各学校で誕生日ケーキを作らなきゃいけないのだとか。で、くじ引きでケーキ係を任命された貧しい少女が、ケーキの材料を求めて街をさまようという話。 独裁政権を子供の視点から描いた映画はいくつかあるけれど、独裁者による大文字の弾圧が描かれないのが特徴的。残虐な拷問や粛清は出てこない。その代わり、「ケーキ」という小さなものが少女の人生を左右するという不安が描かれ、彼女の大変な一日も日常でしかないという独裁体制の理不尽さがはっきりと伝わってくる。

この、陸自の愛国心調査は、秘密保護法、共謀罪に始まって、マイナンバーカードのゴリ押し、国家情報局、スパイ防止法、個人情報保護法の改悪、国旗損壊罪までの一連の流れに位置づけられると思う。根底にあるのは、思想信条の自由を制限したいという薄暗い欲望だ。「「愛国心」の欄には、海外で中国人と間違えられた際に「徹底的に口論する」などと具体的な言動が記録されていた」とか、キモすぎ!↓ kumanichi.com/articles/201...

【独自】陸自情報部隊が「愛国心」など調査か 国内有識者ら対象に個人情報収集 数千人分、シビリアンコントロール逸脱も|熊本日日新聞社

陸上自衛隊中央情報隊(東京・埼玉、朝霞駐屯地)の対外情報部門「現地情報隊」が、日本人の大学教授やNPO法人代表ら市民を対象に、「愛国心」や「対自衛隊感情」といった思想信条の情報を組織的に調査・収集しているとみられることが22日、元隊員らへ

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骨太の方針に出てくる「人社系学部のダウンサイジング」。安倍政権・菅政権の頃から人文知への憎悪を感じていたけど、もはやそれを隠す気もないんだな。まあ、維新は前から学者を毛嫌いしていたので意外性はないが、ムカつくし愚かだと思う。つか、人文知はいらないとか、つくづく、つまんねー奴らだ。

円城塔さんは、小説だけじゃなく、小説以外のフィールドでの文章もいいんだよね。以前、岩波の「世界」に寄稿していた「ポストトゥルース」についての論考とかも、めちゃめちゃ面白かった。

あと、『ユースフル・ゴースト』はパンフもめちゃくちゃ充実しているので、おすすめです。わかるとさらに味わいが増すタイの社会背景の解説や、関連おすすめ本の紹介、ゲイの青年は「Ladyboy」と名づけられてるんだけど、その用語解説まである。解説もこれ以上ないという人選で、中でも円城塔さんの寄稿が最高だった。複数形の「ゴーストたち」についての論考で、語り口と視点がもう円城さんの小説を読んでいるような面白さ。