昨日行った上野マルイの地下の大人向けトイザらス、客のカップルの彼氏の方が店内に置いてあったポピープレイタイムのマジックハンドのオモチャで彼女の胸をつっついたり髪の毛いじったりしてて、「キダルトってのはキッズのオモチャでアダルトな遊びをすることじゃないぞ!」と思った
ドリーファンクJr.逝去、試合を生で見た世代ではないし、物心ついた頃からすでにレジェンド枠だったレスラーではありますが、おれは『笑う犬』世代でテリーとドリーのコントはゲラゲラ笑いながら見ていたので、やはりちょっと寂しい
なので戦争に対して度を越した興味を持っている人間というのは、生活そのものに目を向けないわけにいかない。宮崎駿が『雑想ノート』で抗日戦争時の中国兵が食っていた炒め物に言及し、押井守が「レイバーを整備する人間が食う物は何か」まで描写するのは、詰まるところ戦争について考えるのがメチャクチャ好きだからなんじゃないかと思うんだよな〜
「戦争とは生活そのものである」というのは、西島大介の『ディエンビエンフー』で喝破されていて、読んだ時はなるほど〜と思ったし、今でもそうだよな〜と思っている
軍隊はそれこそ「生活そのもの」をプロデュースする必要のある機関で、だから缶詰とかレトルト食品みたいなソリューションが民間にも落ちてくるし、米軍はバーガーキングの屋台を輸送機に乗せて運んだりする。しかし国家の要請によってお膳立てされ、特に親類縁者でもない人間をまとめて管理して衣食住の面倒を見る生活が「奇妙」でないとは言えないわけですし、押井守ほどのミリタリーマニアが「生活」とその奇妙さに関心を持たないわけがないのだな
日本映画における「奇妙な共同生活」概念の根底には、全共闘世代が闘争をやってたころの共同生活の記憶があるのではないか……というなんの根拠もない推論を思いついたので書いておきます
あの押井守ですら『ケルベロス』では登場人物に「奇妙な共同生活」を送らせちゃってるので、やはり人間は普遍的に謎のメンバーと奇妙な共同生活を送りたがっているのではないか……と一瞬思ったんだけど、ビューティフルドリーマーとかのことを思い出して、むしろ押井守はかなり「奇妙な共同生活」概念の始祖に近いのではないかと考えを改めた
アジア映画的テンションとB-CLUB的プラモ少年テンションがごちゃまぜなのがすごいよなケルベロス。かなり珍しいタイプの映画だと思う
ケルベロス、昔見た時は「眠いな〜」と思って見てたんだけど、今となっては「海外旅行に行ってこういうテンションになるの、わかる!」みたいな気持ちだ
「命令されるのは好きか?俺は好きだ。最も、命令される主人は選びたいがな」ってセリフ、フリーランスの下請け業者になった今聞くと沁みますね