小池陽慈

@koikeyoji.bsky.social

執筆業・予備校講師・放送大学大学院博士後期課程3年。アイヌ語の学び直しを始めました。著書に『14歳からの文章術』『"深読み"の技法』(笠間書院)、『評論文読書案内』(晶文社)、『現代評論キーワード講義』『マンガ森の彷徨いかた』(三省堂)、『ぼっち現代文』(河出書房新社)、編著『つながる読書』(筑摩書房)、他、多数。 https://researchmap.jp/akketek_hopuni

「主語が大きい」をあまりに強調し過ぎると、よくない意味での相対主義、ニヒリズムに陥ってしまう危険性がある。時には「大きな主語」で語ろうとすることも大切なのだ。ただし、それを語るとき、そこにおいて誰が不可視化されているかについては、細心の注意を払って考え続けねばならない。「大きな主語」で語りながら、同時に、「大きな主語を相対化する無数のまなざし」を呼び込み続けること。それが肝要なのだと思う。

これが、私たちの社会の現実なのだ。いつ、どこで惨劇が繰り返されても、おかしくはない。もちろん、その芽は徹底的に潰していかねばならない。そしてそのためには、人文学の知が欠かせないはずである。ところが、今、この国は、「実利」や「実益」に偏重し、人文学を蔑ろにし続けている。このままでは、本当にこの社会は終わる。瓦解する。 民団支部にカミソリ、脅迫か 虐殺想起の「15円50銭」も #47NEWS www.47news.jp/14881642.html

民団支部にカミソリ、脅迫か 虐殺想起の「15円50銭」も

千葉県市川市の在日本大韓民国民団(民団)市川支部に、カミソリの刃と現金15円50銭の入った郵便物が届いたことが2日、民団への取材で分かった。1923年9月1日の関東大震災直後の朝鮮人虐殺では、自警団 ...

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「日本を代表する哲学者」の一人に、和辻哲郎がいます。和辻は、関東大震災を直接に経験し、その際の自らの心理を、エッセイ「地異印象記」に綴っています。ネットに氾濫するトンデモ言説など問題にならぬほど、信頼に足る言葉であることは言うまでもありません。 > そういう不安な日の夕ぐれ近く、鮮人放火の流言が伝わって来た。我々はその真偽を確かめようとするよりも、いきなりそれに対する抵抗の衝動を感じた。 和辻は、朝鮮人の「放火」について、はっきり「流言」すなわち〈根拠のないうわさ〉と断言しています。しかし、「我々はその真偽を確かめようと」せず、「衝動」的に反応した、と。 (続く)

(承前) > もとより火を消す必要もなく、また放火者が近づいて来たわけでもなかったのであるが、こうして我々は全市を揺り動かしている恐慌にたちまちにして感染したのである。 「放火」云々がデマであったことがわかります。なのに、東京全体が恐怖に「感染」してしまっている。この後に続く文が、以下になります。 > 夜じゅう何者かを追いかける叫び声が諸々方々で聞こえた。 恐怖に「感染」した集団による、おぞましい暴力を示唆しているとわかります。

引用は、すべて、青空文庫の和辻哲郎「地異印象記」によります。「長いな…」と感じられたら、五章を、かつ、わかるところのみ拾い読みするだけでもかまいません。それだけでも、おおいに考えさせられるはずですから。ぜひ。 www.aozora.gr.jp/cards/001395...

地異印象記 (和辻 哲郎)

(大正十二年九月)一 大正十二年ごろ関東地方に大地震がある、ということをある権威ある地震学者が予言したと仮定する。その場合今度のような大災害は避けられたであろうか。大本教(おおもときょう)は二、三年前…

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「日本を代表する哲学者」の一人に、和辻哲郎がいます。和辻は、関東大震災を直接に経験し、その際の自らの心理を、エッセイ「地異印象記」に綴っています。ネットに氾濫するトンデモ言説など問題にならぬほど、信頼に足る言葉であることは言うまでもありません。 > そういう不安な日の夕ぐれ近く、鮮人放火の流言が伝わって来た。我々はその真偽を確かめようとするよりも、いきなりそれに対する抵抗の衝動を感じた。 和辻は、朝鮮人の「放火」について、はっきり「流言」すなわち〈根拠のないうわさ〉と断言しています。しかし、「我々はその真偽を確かめようと」せず、「衝動」的に反応した、と。 (続く)

「当事者世代ではないのだから、かつてのこの国の戦争について、反省なんてしません」という理屈でいくなら、自分が生まれる以前の、この国のあらゆる出来事や物事についても、それを誇ったり崇めたりできないということになるぞ? 逆に言えば、「保守」たらんとするなら、「誇ったり崇めたりできない負の歴史」についても、それと自らとの連続性を直視し、自分自身の「責任」において引き受ける必要があるってことだ。

「違法ではないと認識している」とか、「ご指摘の件については当たらないと認識している」とか、いやいやいや、あなたの「認識」なんて聞いてないです。あなたが説明すべきは、あなたの「認識」ではなく、そう「認識」することの論理的、倫理的な妥当性です。それをきちんと、多くの人が「確かに」と思える言葉で述べてください。それができないなら、あなたの「認識」は妥当ではないということです……と、政治屋さんたちにしばしば思う。「間違ってはいない。なぜなら間違ってはいないからです」とか言われても困るのよ。

与党とその愉快な仲間たち〜ズは、「ネオリベラリズムっていうのはね、例えば…」に続く例を次から次へと出してくれるので、授業で解説するときに助かる。もちろんこれは皮肉で言っている。

いやしくも筆を生業にする者である以上、あるいはこの社会に生きるマジョリティとして、さらには東京都民として、関東大震災における、朝鮮人を中心としたマイノリティの虐殺について、何かしら文章を綴りたいのですが、今はどうしても時間がとれません。5年前にしたためたものですが、こちらを共有させてください。寺田寅彦の随筆、「流言蜚語」を紹介しています。 note.com/gendaibun/n/...

寺田寅彦「流言蜚語」に学ぶ|小池陽慈

適当な科学的常識は、事に臨んで吾々に「科学的な省察の機会と余裕」を与える。そういう省察の行われるところにはいわゆる流言蜚語のごときものは著しくその熱度と伝播能力を弱められなければならない。 〜寺田寅彦「流言蜚語」より〜 先日の福島沖地震(2021年2月13日)で、また腹立たしいことが起こりました。特定の人々を名指しして、「あいつらが井戸に毒を投げ入れるから気をつけろ」といった趣旨のツイートを...

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9月末にでる新著、もう、早く刊行されてほしい。こんなに緊張するか、というほどに胃がキリキリする。激しく非難されはしないか。それとも逆に、黙殺されはしないか。この極度の神経の強張りから、今すぐにでも解放されたい、楽になりたい。自分としては、学習参考書の歴史に名を刻む、革命的な一冊を書けたと信じている。であればこそ、本当に怖い。

「冒険家」を名乗る少年のXでの言葉が、ときどきスクショ等で流れてくる。彼を玩具にして好きなように操ろうとしてきた大人たちに、心の底から嫌悪を覚える。彼は、ある意味では、電脳空間に堆積する悪意の犠牲者なのだろう。願わくは、彼がもう一度、この社会と出合い直すことができますように。あの連中の物語から解き放ってくれる誰か、あるいは何かと、めぐりあえますように。

例えば、「文学とは何か」を定義することはできなくとも、それでも僕たちは、「文学」という言葉の意味やそこに含まれるイメージを、それなりに共有している。これが言葉というものの面白さであり、可能性であり、そして、恐ろしさでもある。

岡田あーみん先生が、確か「あーみんの好き放題劇場」で描いてた「霊媒師」のおばあさんって、たぶん、沖縄のユタだよね。だとすると、あそこに描かれていたおばあさんの戦争時の話って、沖縄戦のことだったのか。うろ覚えだが、「こっちの人たちは全滅だー!」といったようなセリフがあったと思う。徹頭徹尾ギャグとして描かれたマンガの中にすら、そうした一コマが差し挟まれるということもまた、ある意味で、沖縄戦の苛烈さや惨たらしさを表象しているのかもしれない。

沖縄県知事選は、日本の岐路だと思う。この結果次第で、この国は最悪に向けて一気に加速するのではないか。 けれども私のこうした言葉は、投票所に向かう沖縄の人々に、重圧を強いるものでもあるだろう。「いや、勝手に国の命運を委ねられても」と、お叱りを頂戴するかもしれない。 県外──あるいは「本土」──の人間が、国政レベルのアポリアを彼の地に押し付ける。その構造自体は、私の言葉と琉球処分や沖縄戦とで、なんら変わるところはない。 例えば私が、玉城デニーへの支持を表明することもまた、そうした意味では"暴力"であり得るのだ。だからせめて、忸怩たるの念から目を背けるまいと思う。 玉城デニーの3選を祈る。

「伝統とされる〇〇も、実は近代の産物であった」、「□□は、明治期に作られた神話に過ぎない」等々の構築主義的言説が、「明治の日」一派に逆利用されている。「うん。そうだね。〇〇も□□も、明治に作られたものだよね。ということは、明治ってすごいんだね。だから明治を記念しよう!」といったレトリックで。構築主義が逆利用されているのはこれまで何度も見てきたが、そのたびに暗澹たる気持ちになる。

「戦後、焼け野原から復興した日本スゲェ」言説も、危ういよ。だってまず、朝鮮戦争による「特需」があったわけじゃん。日本がアメリカ軍に軍需物資や兵器の修理等々を供給して、そこで大金が入ってきたことが、後に続く高度経済成長にも影響してるわけじゃん。言い換えれば、戦後日本の復興は、この国の提供した諸々によって殺された、夥しい数の朝鮮半島の人たちを踏み台にしたものでもあるわけじゃん。「戦後の日本スゲー」言う前に、最低限は、そういうことも考えてみようって。義務教育で学ぶ内容からだけでも、十分に想像できることなんだからさ。

汗水流して働いて働いて、稼いだお金から徴収された税金が、在日米軍へと「再分配」されて、その基地から出撃した軍隊が、戦地へと赴く。俺の稼いだ金が、どこかで誰かを殺戮している。

だいたいさ、この国、軍事に全フリしてた時代に、沖縄や南洋群島のことを「本土」を防衛するための犠牲にしたわけよね。今の軍拡路線の先に待つのも、同じ未来なのかもしれない。僕はね、そんな「未来」は絶対に嫌だ。嫌なんだよ。

兵站なしに戦争が成り立ちますか? 無理ですよ、そんなこと。僕は軍事は素人だけれど、兵站が戦争遂行の要だってことくらいはわかります。ですから、敗戦後も、例えば朝鮮戦争やベトナム戦争における物資やサービス、医療等々の供給、あるいは近年なら、自衛隊によるインド洋での燃料補給等々、日本はずっと、アメリカ主体の戦争に参加してきたわけですよ。日本国憲法あるのに。「戦争の放棄」を宣言しているのに。これで日本国憲法すらも改悪されたら、もうほんと、なんの歯止めもなくなっちゃいますよ? そんなのダメですって、絶対に。