大バカやろうはバカ野郎

@pay-pay.bsky.social

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パラノイア的読解の恐怖は、「教条的なトートロジーに陥っていることに気付けなくなること」だが、最大の恐怖は批判対象そのものに飲み込まれていくことかもしれない。資本主義資本主義と連呼していると全部資本主義の問題に見えてきて、まさしくすべてが商品になる。 対象を相対化する作業が大事。 セジウィックの言ってることって所詮生きていきの話なんだが、ただこういう「ゆるさ」が共生には大事だったりする

政策じゃなくて弱者へのアプローチの話として、山本太郎は教祖の才能があるなと思って結構感心してたんだけど、 なんかやっぱいうても弱小のカルト宗教感が否めないんだよな。神谷はみてて楽しい。

アイデンティティを政治主体にしたことが、むしろ主体とアイデンティティを過剰に結びつけ、アイデンティティに対する差別感情を再生産したというのは僕は正しいと思っている。とはいえ、よくあるアイデンティティ政治批判は承認と再分配をあまりにも切り分け過ぎている くらいの立場。

ただ、こういう話をする時、マイノリティ化/普遍化の二項対立がまた立ち現れてしまうのがむずかしい。 「普遍的に意味のある問いである」ことと、「マイノリティにとって意味のある問いである」ことの双方を維持したまま、しかしそれらを二項対立的に扱うのではない形で議論するのはめちゃくちゃむずい…自分が議論がまだうまくないのもある

まず再生産は異性愛規範と結びついており、階級/アイデンティティ、あるいは経済/文化という二分法は、「真の矛盾」を一箇所に定位する発想を温存してしまう。 しかし実際には、政治主体やヘゲモニー的接合は労働力の再生産や家族制度といった歴史的・物質的条件の上で構成される。であれば、問うべきなのは階級かアイデンティティかではなく、それらがいかなる物質的条件のもとで接続され、あるいは切断されているのかということで、階級/アイデンティティという古典的な二分法の反復にはもはや意味がない。

「LGBT活動家」といっても様々なので、ぼくはイライラしている時しかその言い方はしないが(え?)、ただ基本的にあまりにも素朴すぎるし、問いを投げかけた時に敵/味方判定をしてくる確率は経験上高かった。

「心/体に性別が"ある"」というのは本質主義的だ みたいなこと言ってプチバズした時に確信したが(その時フォロワー10人程度だった)、左派っぽい言葉遣いで主流の左派運動の悪口を言うとファストに消費されてバズる。そんな簡単な話ではないはずなのに。

右派的な言説に一時的に近づくことさえ許さないなら、(かつての)「クィア」のようなラディカルな政治はもう立ち上がらないだろう。右派の言説は、時には左派の言説よりもより多くのことを学ばせてくれる。必要なのは「敵/味方」思考ではない。

まずクィア理論というのは一度右派的な言説に乗った上で、そこから政治を立ち上げる必要が一定程度ある。とくにアンチソーシャルは。 であれば、まあ、名前を出すとすれば松浦大悟とかあの辺りを外部化するのは微妙だと思う。彼の言っていることはものすごく雑だし、理論を自説のために適当に利用していて気に食わないが、とはいえ無視できないと思う。

同性婚については議論になることが婚姻制度の構築性を暴くことに繋がると思うので、それ自体素晴らしいことだとは思っている。が、法制化を自明視するような方向性には明確に反対する。とはいえ、「婚姻制度の解体」というのも結局「再生産制度」に依存するかたちになっていると思うので、「婚姻制度って馬鹿じゃないの?」くらいの態度で自分はいる。

『バトラー入門』は(鉤括弧付きの)思想・哲学的な系譜やその後の影響ではなく、フェミニズム・クィアにおけるバトラーの重要性を強調した本で、ぶっちゃけ僕はこれってどうなのだろう?と思っていたのだが。藤高さんご自身が「『ジェンダーは些末な問題である』という左派的な言説」に対してつねに説明を求められてきたであろうことを考えると(というかそのイライラがかなり込められていたが)、あの書き方にも納得できる。とはいえ、「バトラーの入門書」としてはやはり疑問も残る。フェミニズム・クィアに絞ったとしてもその後の理論的な影響についてはもう少しページ数を割けなかったのか?

あらゆる政治主体は他との境界線を引くことにより形成されるのであって、構造的位置からそのまま生成されるわけがない。階級/アイデンティティという二項対立と、そのうえで「真の問題」は前者であるとする態度は、結局のところ「プロレタリア」という主体の政治性を不可視化する。

ただ何者でもない自分でいたいという気持ち、誰とも連帯などしたくないという気持ちと、とはいえ外部には立てないという現実、このふたつを維持したまま、内部の矛盾や関係性のなかからなにかを立ち上げること。今はそんな感じだ

僕もまあ、以前はアクティヴィズムを外部化して「それって結局差異を資本に回収してるだけですよね?」とか連呼していたが、やはりそれだと問題をきちんと捉えられない。 運動論的なところにさほど興味がない批評家も、まあ、それはそれで別になんか言う気にはならないけど、少なくとも自分はある程度責任持ちたい。とくにアンチソーシャルや否定性の方向性に行くなら尚更だと思う。

誰だったか、Twitter論客サマが「バトラーは『トランスジェンダリズム』をあらかじめ批判していた!」とか訳の分からないことを言っていたが、まずもってバトラーは身体は幻想だとは全く言っていない。それからいまの「トランスジェンダリズム」は「心の性/体の性が"ある"」という本質主義的な側面と、「パス」という構築主義的な側面を両方備えており、この意味でバトラーと必ずしも対立しているとは言えない。(まあ、ここはTG的な立場とTS的な立場の対立があるので一概に言えない部分もある。ただいずれにせよここでいう「トランスジェンダリズム」という括りかたは雑である) そもそもプロッサー等の批判押さえていないでしょ

自分もかつてそうだったので、過剰適応保守系クィアにはある程度理解があるつもりなのだが、あれはロールモデルが「活動家」と「静かに暮らせばいい」的な保守派の二択になってしまっているせいだと思うんだよな。 だからまず、彼らは「静かに暮らす」ことができるようになるまでどんな出来事があったのか知るべきだし、知った上で「活動家」のやり方に違和感があるなら、他のあり方を探ればいい。分類しづらい場所にとどまることを恐れてはいけない。 そして、とにかく自分のアイデンティティをなかったことにしないことですよ。

何度も何度も言っているが、保守派のクィアを馬鹿にしたり見捨てたりするのはあまりにも残酷だ。実際にアクティヴィズムに対する不信感というのは実感としてあるわけでしょう。そういう人を切り捨てた先に何がある? 「同じアイデンティティだから」という理由でその人に対等に向き合わないのは違う。政治的対立は実際にある。とはいえ、やっぱりある程度同じ経験はしてきているわけでしょう。 抵抗/迎合、もっといえば、活動家支持/批判の二項対立図式でひとやひとの考えを分けるのをやめるべき。そういう二項対立そのものに自分は抗わなきゃならないのだと思う

Twitterで「当事者性」の話したくないのでこっちで書くけど、阿部さんの未成年者誘拐容疑の件は個人的にかなり考えざるを得ないものがあった。この家/地域/国、あるいはこの世界の外にあるどこかにいかないと自分は自分として生きられないのではないか、と感じてしまう時期というのはやはりある。今回のやり方の是非は別として、そういう時期に、キラキラした「活動家」でも無理解な福祉職員でもない誰かによるサポートはすごく重要。 自分は学術的な考え方をする人たちの中にどーにかして入ることで安定するようになったけど、さまざまなものに不信感を抱いてしまう気持ちは痛いほどわかるし、そういう時に複雑な思考はできない。

「ミセス歌詞が浅い」と叩くツイートが流れてきたのであらためて歌詞を見ていたが、フロリジナルダントツでいいな。 「不完全」な行為としての「嗅ぐ」。タッチではないが、体内に取り込む身体的な行為ではある。 ミセス聴いてください🫵

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情動の次元見ないと結局アイデンティティカテゴリーに対する同一化/脱同一化でしか主体と制度の問題見られないと思うんだよな。それは即ち当事者/非当事者のゲームに乗るということでもある