モーツァルトは執筆の邪魔にならない。自分に合っているのだと思う。 シンフォニーなら40番、ピアノコンチェルトなら二十番。短調が自分の気持ちに合っているときは、苦しいけど真剣なモードに入ろうとしているときだと思って書いている。 長調を好むときももちろんあって、むしろ普段はそっちの方が多い。それにしても最後の作品がレクイエムだなんて、小説よりもできすぎた人生だなと思う。
ノートPCを新調した。前のは八年使ったが、打っても反応しないキーがいくつか発生するようになり、古い外付けのキーボードを繋いで使っていたのだった。 主に文字を打つだけなので、型落ち品だが自分には十分すぎるスペックだと思う。公募原稿の残り数十枚(?)はこのPCで書いていく予定だ。ただ、今日はセットアップしただけで疲れてしまった。テキストエディタや電子辞書などをインストールして執筆環境を整えるのはもう少しあとになりそうだ。 筐体に手を当て、これから先よろしくお願いしますと挨拶をした。
推敲しながら書き進める。なるべく完璧に近いくらい完成させて次の段落、次の一行に進む。 おそらく、このような小説の書き進め方は効率が非常に悪い。仕上がりが遅くなる。しかし、そのようにこれまで書いてきたので、すぐには変えられない。仕方がない。このやり方を変えないで完成させようと思う。正直、焦っているが、自分を信じるしかない。
ここにきて、「スパゲティ」と表記するか、「スパゲッティ」と表記するか、どちらがこの小説の文体及びこれまでの文章の雰囲気に相応しいかで悩んでしまった。どうでもいいことのようだが、なぜか迷う。どちらかというと、スパゲッティの方がいいような気がしているが、なぜその方がいいのか理由がわからない。書いていると、そういうことがたまにある。
地の文が続く箇所を書いていたこの間までは順調に筆が進んだが、会話場面に入った途端、また筆が停滞している。自分の中では、会話の言葉選びが難しいと感じていて、今書いている人物がどういう人間なのかを書きながら造形しているから時間がかかっているのかも、と思った。 書き手によっては地の文より会話文の方が楽に書けるという人もいるだろう。そういう人は、あらかじめ人物造形を細部まで作り込んで、性格も口癖も明確に把握できているのではないだろうか。 まだまだ難関は続く……。
なんの知識も、なんの情報も持っていなかった一昨日、ただお寿司が食べたくてのほほんと訪れたいつものお店に、なぜか駐車場が混んでいて、誘導する警備員がいて、お昼の時間帯を避けた平日の午後なのにお店の外までお客さんが並んでいて、とりあえず席の予約を取ろうかと入店して中を覗いたらそこでも待っている人がものすごく多くて、今日はここでお寿司を食べるのは諦めよう、とそのまま妻と二人で後ろ歩きで後戻りしながら店の外に出たのだが……なるほど、そうと知っていたら近付かなかったのに、とあとで思った。家に戻ってからネットでちいかわを調べた。可愛かった。
小説のタイトルを付けるときにすごく悩んだあげく、どうにも決まらないので苦し紛れに『○○と〇〇』という風に、作品内に出てきた言葉や物を「と」で繋いで並べることで誤魔化してしまったことがある。作品にフォーカスがうまく定まらないまま、それらしいタイトルを付けようと安易な手段に出てしまったのだ。世の中にはきちんと考え上で「○○と○○」という優れたタイトルを付ける作者がいるというのに。タイトルは作品の顔だと言われているが、顔が決まらないというのはやはり苦しい。つくづくタイトルは難しい。
九月に入ったら急に秋めいたように涼しくなった。 半袖のままでいくか、長袖に着替えるか、判断が難しい。 こちらは昔の作品だが、元々は詩だったものをおよそ1,590字の掌編小説に仕立てたもの。詩から小説に着替えるのは簡単ではないと身に沁みた。 note.com/umigamewan/n...
膜|海亀湾館長
掌編小説 ◇◇◇ 夏が終わって学校が始まると、顔に薄い膜がかかるようになった。 わずかに息苦しい気がするのはこの膜のせいだろう。一度も言葉を交わしたことがないのに、顔見知りばかりやたらと増えるのが学校という場所だ。私の顔に貼り付く膜のことが学校中で噂になっていたとしても、私がそれを知ることはない。 膜は簡単には取れてくれない。半透明のまま、肌にしっかりと食い込んでいる。帰りの電...
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最近になってライト文芸と呼ばれているものがあるのを知った。ライトノベルと一般文芸の中間に位置する小説ということらしい。この微妙な位置付けを正確に把握できるかというと、わたしはちょっと自信がない。というのもライトノベル自体、わたしは読んでこなかったからだ。昔でいうコバルト文庫や朝日ソノラマ文庫なら読んでいるが、そういうのとはまた違うようだと感じている。小説の分野に多様性が生まれ、細分化されることであらたな読者人口が増えるならぱ喜ばしい。わたしとしては、分野の枝分かれが起きても、自分自身が何を書いているのか見失う事態には陥らないようにしたい。自分だけが書けるものを書くしかないのだから。
純文学作品を扱ういわゆる五大文芸誌の新人賞の公募規定には、エンタメ作品の公募に見られるような「あらすじ」「梗概」の添付を求めていない。それはなぜなのか。 本当のところはわからないので、理由を想像するしかないのだが、たとえば作品の指標としてのあらすじが、作品の鑑賞に先入観を与えたり、読者の読みを誘導したり、固定の思い込みを強要したり、といった弊害をもたらす可能性があるからではないか。必ずしもテンプレートに則したような構成や物語性を必要としない純文学は、その入り口から読者の自由を保証してくれている、ということなのかも? (自信はない、間違っているかも知れない……)
ひとつのシーンで書き込み過ぎではないか、と不安になりながら書いている。必要だと思って書いているが、くどい、長い、と思われてしまうおそれがあるのではないか。だが、短篇と違って中篇は、省略を利かせなくてもある程度の冗長さなら包み込んでくれそうな気がするので、そこに面白みがあると信じてこのまま進めて行こうと思う。こんなことを口にしてしまうのも、不安だからかも知れない。はじめての分量なので。
その昔、村上春樹の『羊をめぐる冒険』の冒頭にあたるテキストの一部に関して、わたしはあることに気付き、これは大発見だ! これに気付いたのは自分が最初なのではないだろうか! とひとりで色めき立ったことがあった。でも、世の中にはいろんな人がいるから、もしかすると自分以外に気付いた人がすでにいるかも知れない、と思ってネットで検索をかけてみたら、案の定、自分と同じ発見をした人が一人いて、個人ブログに同様の内容を載せていた。だよなあ、いるよなあ、世の中は広いからなあ、と思った。
私小説の書き手、佐伯一麦さんによる新刊。 『水平と垂直』は、著者が大阪芸術大学の客員教授として少人数制の創作ゼミを受け持っていた経験から生まれた作品。実際に学生が書いた創作の文章を、引用する形で取り込んであり、私小説という形式の創作でありながら、どこかドキュメントの趣が漂う。 読みかけの本があるのに、わたしはそれを脇に置き、今こればかり読んでいる。
暑中見舞いは終わり、もう残暑見舞いの頃か。 お盆が過ぎれば晩夏。いつだって夏は駆け足で通過する。 note.com/umigamewan/n...
遠くに上がった花火 〈詩〉|海亀湾館長
夏の打ち水 黒くなる石畳 途中で飽きてうりゃあっ 桶ごと撒いた水で虹ができるわけもなく ただ苔を剥がして 蛙が慌てて逃げただけ 暑中見舞い 帰省は見送ると走り書き 破いてやろうかごるぁあっ それでも彼の書いた字を破れるわけもなく ただ冷麦を啜って 形の変わらぬ雲を見てるだけ 浴衣姿のカップルが増えて ただただ胸糞わるい午後だ 花火大会の賑わいが目障りで 返す返すも腹が立ってくる夕方だ 線香花...
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東野圭吾は『レイクサイド』しか読んでなくて、二冊目を読むとしたら何にしようかと思いながら出掛けた書店だったが、子供向けの棚で偶然フィリパ・ピアス『トムは真夜中の庭で』を見つけた。堀江敏幸さんがこの作品を推していたので前から気になっていた書名だった。買った。いつ読めるかわからないけれど買った。
読書感想文という夏休みの宿題を、AIにやらせる子供が多くなるのは自明なことのような気がする。それがAI使用によるものか否かを教師や学校側が正確に判定できないなら、従来の読書感想文という夏の宿題は、もはや成り立たないのではないか。 それでも感想文を書かせる教育が必要なら、宿題としてではなく、教室で本を読ませて、そのあとすぐにその場で感想文を書いてもらう以外にないような気がする。となると、長編小説は読むのに時間がかかるので、掌編か短篇の感想文を直ちに仕上げる能力が試される……とここまで近未来を予想してみた。 小説の公募でも思うことだが、AIの使用不使用が簡単に判定できる世の中にならないものかな。
真夜中にキッチンの明かりをつけず、冷蔵庫から取り出したカルピスをグラスに注ぎ、炭酸水で割った。窓を開けると外は小雨で、かすかに届く雨音にしばらく耳をすませた。程よい静寂、程よい空気の涼しさ。そのまま床に座り、涼味のある夜気を吸い込みながら、書いている小説のことを考える。少しずつしか進められないのは失敗を怖がっているからか。間違った方向に進みたくないという思いはあるけれど、この慎重さは停滞を助長する。いっそ開き直って間違った方向でもいいからとにかく進めていくのが正解だという気もしてくる。 ただ、少しずつでも書き進んでいるのは楽しい。誰よりも完成が楽しみなのは、いつだって作者本人なのだ。
いい香りを嗅ぎ、夏だなーと思った。朝採りの枝豆を頂いたからだ。わたしが住む地域だけで収穫されるこの「だだちゃ豆」という品種は、甘みと旨みがあり、一度食べたらやみつきになる。子供の頃から枝豆といえばこの味だった。上品に手に取って優雅にゆっくりと味わおうと思っていたのに、いつの間にかガブガブと食べている。美味しすぎて手が止まらないのだ。今は早生だが、旧盆の頃に収穫される晩生のだだちゃ豆の味わいは至高。もうずいぶん前だが、キリン一番搾りのCMで中山美穂がだだちゃ豆を食べるシーンがあった。知名度が上がった瞬間だった。
今、三人の人物が登場して会話をする場面を書いているのだが、読み直してみたら、ひとつの台詞を書いたあとに、人物の動作を描写した地の文をいちいち挿入していたため、三人の会話がまどろっこしく映り、シーンが停滞している印象を受けた。地の文を挟まないで、ある程度連続した会話場面を設けないと、テンポが生まれず、断絶した会話文になってしまう。 つい、三人による会話なので、誰が話していて、誰がどういうリアクションをしているかをわかるように書きたくなるから失敗したのだと思った。もっと人物に個性を持たせることと、文脈で誰が話している台詞かわかるように工夫して書こうと思った。
会話文は難しい。ぺらぺら喋る人物を登場させたところで、喋るのと同じ速度で書いていくとやはり筆が滑る。意味のないことを話しているのが本当の会話だとしても、小説の会話文はそれをそのままなぞるわけにはいかない。効率よく複数の事柄を、話し言葉の中に忍ばせる役割りがある。それを目立たせることなく、何でもないようにさらりと書いているのを読むと、上手いなあとため息が出る。
気に入っている執筆場所、というわけではないが、人によってはこの場所だと筆が捗るとか書くための気持ちにうまく切り替わるといった場所というものがあるような気がする。 わたし場合、今の時期だとキッチンの床の上に寝転んだ格好で本を読み、スマホのメモアプリに寝転びながら原稿の文字を打っている。涼しいから、ということもあるが、去年も同じ場所で締め切りに間に合うようにせっせと書いていた思い出があるので、そういう場所を見つけられただけでも十分自分は幸運なのだと思っている。
書いている途中、新たな登場人物が突然出てくることがある。これは、最初に構想を練っているときに、そういう人物が必要だとは思わなかったからだが、だからこそ、結構重要な役割を持って出てくることが多い。その新登場した人物が最初に話す会話文を書くときは緊張する。この人はどんな話し方をするのか、実際に書いてみるまでわからないからだ。今から書くこの会話文で、この人物の性格や人間性が確定するのだなという緊張感のため、何日か筆が止まっていた。今日ようやくその人が喋り始めた。面白くなりそうな気がする。うまくいって欲しい。
一人称で書いていた小説を、三人称一元視点で書き直すとき、主人公の一人称の部分を、名前や人称代名詞にただ置換すればOKという単純なものではないはずで、文章も三人称に相応しいように修正する必要があると思うのだが、一人称の書き方で書かれた三人称の文章を見かけることがあり、自分もそうなのではないかと心配になった。視点の場所が主人公の内部にあるのと、外部にあるのとでは、たとえわずかでも違いが生まれると思う。
noteは横書きで表示されるので、note用の小説はテキストエディタに横書きで書いている。 公募用は縦書きに印刷するので、以前は縦書きができる別のテキストエディタに打ち込んでいた。でも横書きに慣れてしまったことや、外出時にスマホのメモアプリ(横書き)で執筆をすることもあるので、今は何でも横書きで打ち込むようになっている。横書きで書いた作品を縦書きに表示すると、強烈な違和感が生じて、あれ? と思うことがあったが、最近はそんなふうに思わなくなった。鈍感になったのだろうか。単に慣れただけのような気もする。
小説を書いていて、よくある名称なので何気なく使ったら、それが登録商標だったということがある。それによってイメージが固定されるのなら小説に使うのは避けようかなという気持ちも働くが、あまりに生活に溶け込んでいると、その名称を使わない方が不自然に思われる場合もあるのではないか。 この間、ポリバケツが登録商標だったのを知ってそんなことを考えた。プラスチック製の青いバケツ、と書き直すのもどうなのか。 悪いイメージを持たれる使い方をするわけでもなく、なおかつ、ほとんど一般名称化しているものであるなら、使わせて頂こうかなと最近は考えている。
今書いている小説はAIには絶対に書けない、と思って書いている。たぶん、書けないはず……。問題は、それを判定する確かな方法がないということかも知れない。不安だ。
今日でようやく四万字を超えた、と思って一瞬喜んだのだが、改行も一文字としてカウントする設定になっていたため、全然四万字を超えていなかった。先月100枚を超えたというのに、あれからなかなか文字が埋まらない。四万字が遠く感じる。 ただ、次に書こうとしている場面は見えている。それだけが救いだ。
十八歳のときに「羊をめぐる冒険」を読んだのがわたしのはじめての村上春樹で、たいへん衝撃を受けた。どういう衝撃だったかというと、自分が今まで読んできた小説とまるで読後感が違っていたから。ざっくりした言い方になるが、オチらしいオチがなくても小説は終えることができるのか! ということをわたしは村上春樹の小説を読んではじめて知った。これは現代の純文学にはじめて触れたことによる、自分の中でも革命的な出来事だった。物語は閉じられず、読んだら終わり、とならないで、いつまでも心の中に手触りが残る小説。この印象はのちにわたしが夢中になる純文学全般に言えることで、自分のこの嗜好はこの先も続いていくと思っている。
公募の際、筆歴を書くことが求められるようなので、筆歴とはなんだろう、と疑問に思い、調べた。筆歴とは応募や受賞や掲載などの実績のことだとわかった。調べてよかった。一瞬、小説を書き始めたときから現在までの年数のことかと思って焦ったので。
一冊ずつ丁寧に読んでいくのが従来の自分の読書スタイルなのだが、読みたい本が、というか読んでいる本が渋滞してきて、思いもよらず併読が始まっている。器用ではないので、一度に何冊も手を出して読むのは得意ではないが、集中力が高まる効果はあるかも知れない。