yoko

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透明と聡明

体力はないしロングスリーパーだし凝り性の完璧主義だし極度の恥ずかしがりだしで、ものを書くには障壁が多すぎるけれど、机に向かっているときの充足感は、ほかに代えられるものがないのだよなあ

ようやく50枚 遅筆すぎて呆れているけれど、書きたい場面のひとつにもうすこしで辿り着けそうだから、引き続き、地道にやっていく

 結局のところーーあるいは、極限においてはーー写真をよく見るためには、写真から顔を上げてしまうか、または目を閉じてしまうほうがよいのだ。《イメージの前提条件となるのは、見るということである》とヤノーホがカフカに言うと、カフカは微笑してこう答えたという。《いろいろなものを写真に撮るのは、それを精神から追い払うためだ。私の小説は目を閉じる一つのやり方なのである》と。 ロラン・バルト『明るい部屋 写真についての覚書』花輪光訳

シャンタル・アケルマン監督『アンナの出会い』を観た。アンナが異国でつかの間の邂逅と離別を繰り返すうちに明らかになるのは、彼女が恒常的な関係の、愛の欠乏のなかにあることだと思う。彷徨いびとである彼女が、そうあるために必然的に手離さざるをえなかったものが愛であり、関係であるのだろう。彼女は旅行者=通り過ぎる者であると同時に、人々にとっての通過点でもあって、それゆえに彼らの交わりには一方通行性が付きまとう。人々がアンナに語る(かつてあった/いまはもうない)愛の経験の逸話もまた、彼女の心象を間接的に物語るものではなかったろうか。愛について語ることはつねに、孤独について語ることにほかならないのだから。

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淡い色の記憶を滲ませたカキオドシの押し葉の古い標本 その成形された茎や葉や花の襞を指の腹でなぞりながら むなびれの痕だと そのひとはいった やわらかな約束を確かめるようなあいまいなうなずき それから 腊葉を入れた同じ行李から取り出した 柿の失われた青葉を古い鏡にうつして ゆみなりに夏が過ぎたこと 時里二郎「伎須美野Ⅰ」『伎須美野』

【おしらせ】来たる11/8(日)、文学フリマ東京初売りで『螺旋と沈黙』を頒布します(後日BOOTHにて通販も行います)。文芸誌ではなく、『jem』の編者である木村夏彦の単著です。 内容紹介:「アンナ・カヴァン、マルセル・シュオッブ、アナイス・ニン、高貝弘也、雪舟えま……。幻想文学と詩歌を中心に、無数の書物を媒介にした二十代前半の思索の結晶。未生と発生の境界、ことばが生まれ出づる瞬間を見定めるための随想/読書録。巻末に偏愛の書のブックリストを付す。」

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「銅版画家・駒井哲郎 掌上にひろがる星座のように」を観た。思惟する人の見る夢であり、夢見る人の思惟であるのが、駒井哲郎の版画であると思う。思惟と夢想が、わかちがたく結びついたものとしてそこにある。思惟と夢想が浸透した、内省の深淵がそこにある。そのなかで私たちは遊ぶことができる。そのなかで私たちはものを思うことができる。真夜中の子供部屋でひとり、そうしていたことがあったかのように。 駒井哲郎が文学と隣り合う場所にいる版画家であることは、詩人、小説家との協働によって生み出された作品を観るまでもないだろう。駒井の画には言葉の気配がつねにある。 駒井哲郎の作品から、私たちは描かれた言葉を読むのである。

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ときとして私たちが、敵対的で、不調和で、破壊的であると考えてきたある真に性質を異にするイメージが、ひとつの見事なイメージに溶け合ってしまうことがある。シュルレアリスムのとてつもなく奇妙なモザイクが突然に意味の連続性を明かす。玉虫色のきらめきがひとつの深い輝きを浮かび上がらせる。イロニーに充ちてきらめくまなざしが突然、流れでるやさしさとなる。告白の火に対する涙の雫というわけだ。想像力の決定的な働きとは、一匹の怪獣からみどりごを誕生させることなのだ。 ガストン・バシュラール『火の精神分析』前田耕作訳

エドワード・ヤン監督『ヤンヤン 夏の想い出』を観た。叶わない願い、というべきものが埋め込まれているのが、この監督の特徴だとあらためて思う。最終的に、いま眼の前にある現実へ回帰していくところも。 現在に、足場が置かれているのだと思う。ヤンヤンが撮影した後ろ姿の写真も、叔父の見通しの甘さを揶揄する側面を持つと同時に、いまに多面性を与える装置だったかもしれない。 沈鬱な場面、厳粛な場面でもちょこちょこ動きまわるヤンヤンの存在と、穏やかな笑いを誘う場面が随所に織り込まれていることが、作品が悲愴感に閉塞するのを抑止している。この均衡もまた、作品の巨きさを物語るのだと思う。何度観ても素晴らしい作品。

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水の眼が空を見上げている 林道の奥の工場の窓枠が錆びつき 庭で草の実がこぼれ続けている 風だけが建物を出入りして 窓硝子に映る貌を何重にも揺らしている 林道を通る人が 深い夢から醒めようとしている 中本道代「用水路」『風に鳴る山』

シャンタル・アケルマン監督『ホテル・モンタレー』と『部屋』を観た。『ホテル・モンタレー』は、ホテルの廊下を長回しでまっすぐ前進する場面がよかった。追跡者や捜索者の視点で観ているようなのに、なにかが見つかることはない、というのが。『部屋』は、卓上の果実や部屋の調度が、窓から射しこむ蒼白い光で覆われているのが美しかった。ベッドに横たわるアケルマンにカメラがまわってくるたび、画面のなかに生きた人間がいることに驚きを覚えた。林檎を齧りながらカメラを見つめる彼女のまなざしには、なにかを見抜かれているような気がした。どちらも無音の作品で、無音だから上映中、会場のちいさな物音が耳に入ってきたのも面白かった。

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考えるまでもなく継続して読んだり、書いたりすることができるのは、途方もなく幸福で、幸運なことなのだから、停滞したり、低迷したりする時期が続いたからといって、弱気になったり、いじけたりするものではないのだよな

樅の木は鈍いビロード色のひだをなし 雲が残すおぼろな翳りの前で緑なす 黒々と立つ木々は堅固にして不動 影によって道が閉ざされることはない ただ時折、突然雲が裂け 真珠の輝きが枝々にきらめくときだけ 荷車を引く男の影が動いて 一本の殻竿がゆっくりと上下する。 クリストフ・フリードリヒ・ハインレ「無題」『ハインレ詩文集』ヨハネス・シュタイツィンガー 編 柿木伸之 訳

昨日は眠るまえ、今日はなにもできていない、どうしよう、と落ち込んでいたけれど、そういえば映画を観に行ったし語学の勉強もしていた 読書と執筆以外のことをするのに、まだなんとなく罪悪感があるのだなあ

映画や展覧会の感想も、もっと気負わずに書けるようになりたいな あまりにも素晴らしいものに触れると、言葉が追いつかないことがしばしばある

リタ・アゼヴェード・ゴメス監督の『Fuck the Polis』は、しみじみいいな、と思う作品だった。冒頭の、輪になって踊りながら歌う人々を映した場面から、なによりもまず、歌の映画だと思った。歌と、朗読が要となる映画。詩や散文作品のテクストが、手紙のように読みあげられているのがよかった。途中、登場する雛罌粟の赤が鮮やかで、しばらくの間眼に残った。穏やかな気候の土地が映されてはいるものの、この作品は、けして安閑とした旅行記ではないのだと思った。併映されたインタビュー映像もよかった。「話が終わらないわね」「私のお喋りに付き合ってくれてありがとう」と笑うリタ監督は、とてもチャーミングで素敵だった。

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ああ、いかにわたしが叫んだとて、いかなる天使が はるかの高みからそれを聞こうぞ? よし天使の序列につらなるひとりが 不意にわたしを抱きしめることがあろうとも、わたしはその より烈しい存在に焼かれてほろびるであろう。なぜなら美は 怖るべきものの始めにほかならぬのだから。われわれが、かろうじてそれに堪え、 讃賞の声をあげるのも、それは美がわれわれを微塵にくだくことを とるに足らぬこととしているからだ。すべての天使はおそろしい。 リルケ「第一の悲歌」『ドゥイノの悲歌』手塚富雄訳

ロビーナ・ローズ監督『ナイトシフト』を観た。とてもよかった。夜に観ることができたから、なおのこと。冒頭のサイモン・ジョフスの音楽から一気に夢の気分に誘いこまれたから、ジョーダン演じるホテルの受付係が、正面に向かって眼を見開いているズームカットが印象的だった。人々が眠る場所、夢を見る場所の入口でただひとり目醒めているのは、彼女が夢の番人だからかもしれない。夜明け前にジョーダンがフロントを清掃するシーンは、掃除機で夢の粒子を吸いこんでいるようで素敵だった。全篇におもだるい眠気が浸透していて、入眠前の夢かうつつかわからない感じ、真夜中から明け方にかけての時間の茫洋とした感じを思いだす作品だった。

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ウルリケ・オッティンガー監督『アル中女の肖像』を観た。二度目の鑑賞だったけれど、初回より愉しんで観ることができた。初回同様、はじめからおわりまでタベア・ブルーメンシャインの衣裳とメーキャップの華々しさ、奇抜さに釘づけだったけれど、彼女のいでたちが際立って眼をひくものであるのは、ベルリンの街並みに生気が乏しいからだと気づいた。異邦人としてやって来て、あくまでも異物として街を闊歩する、ということ。劇中で何度か登場する、タベアが自分の映った鏡やガラスに水や酒をぶちまけるシーンにはふしぎな爽快感があったけれど、あれは嘔吐のことだろうか。全体として滑稽みがあって、喜劇を基調にした作品だという気がした。