「それでは、分裂病者にとって、絵画とは何であり、いかにして可能なのであろうか。あるいは、それは絵画が言語とはことなり一つの事物としての性質を帯びているからかも知れない。すなわち、それは、時間に耐えて持続し、つねに一つの全体であり、しかもいつでも加筆修正にむかって開かれている。 言語においては、全体的なものを一望の下に置くことはできない。それは目にみえず、記憶によって虚空に把持される。さらにいえば、「若干の過去と未来をはらむ現在」という意味での「歴史的意識」に支えられてはじめて在るというべきであろう。絵画はそうではない」(中井久夫「精神分裂病者の言語と絵画」)
佐伯一麦の新刊が面白そうなので読みたいけど、高い。 仙台に暮らし執筆を続ける私小説作家・山路は、南大阪の芸術系大学に毎月通い、非常勤で創作ゼミを担当している。受講するのは、様々な背景をもった学生たち。彼らの文章から見えるそれぞれの葛藤や思いは、大学に進まず小説を書くことを選んだ山路の半生とも響きあい──現実の創作ゼミから誕生した、文学への新たな入口。 www.shinchosha.co.jp/book/381407/
『水平と垂直』 佐伯一麦 | 新潮社
仙台に暮らし執筆を続ける私小説作家・山路は、南大阪の芸術系大学に毎月通い、非常勤で創作ゼミを担当している。受講するのは、様々な背景をもった学生たち。彼らの文章から見えるそれぞれの葛藤や思いは、大学に進まず小説を書くことを
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スポンサーに対する感謝の意を込めて麩づくしのランチを食べてみた。美味しいんだけど、麩にたいして自信を持ちすぎではないか。オーソドックスな麩饅頭と麩田楽は好きでした。
中井輪「庶民烈伝」。シネマの光を浴びた人々の顔と身体。 エリセ「ミツバチのささやき」に村の野外映画上映のアナ姉妹の瞳が描かれていた記憶があるが、こちらはうつろで不気味かつ荘厳。フリードのいう「没入」を思い出したり。同じ人物も描かれている? 小さいキャンバスだと顔みが増す。
「本は読まないけどエッセイ書きたいわー」みたいな若い子がいるという話を聞いた。 なるほど、エッセイ日記短歌がSNSと相性がよいというより、SNSそのものが日記エッセイ短歌なのだという気づいた。コッチャはソーシャルメディアは長編小説だと言ったけど、日本では短歌エッセイ日記になっちゃう。
きわめてどうでもいい話だが、TBSサンデーモーニングの「若い女性アシスタントが手作りの模型やフリップで社会問題を解説する」コーナーがいまだにあって驚愕した。リベラルじいさんの性根を叩き直すべき。
大月功雄さんがおっしゃいたけれど、日本は空襲(被害)の記憶は語り継がれているが、空爆の(加害)記憶は語られない。市街地をも無差別に襲った「重慶爆撃」すら知られていない。
上村剛『権力分立論の誕生』。難しいが、面白い。 権力分立論がいかに生まれたのか。植民地を含むブリテン帝国が成立した1763年当時、イングランド本国では混合政体論が前提。しかし、植民地においては混合政体や政体そのものが自明ではなかったことから、ブリテン人たちは腐敗と暴力沙汰が頻発するフロンティアで理想の政体を求めて権力分立論が発展した。その際、たびたび参照されたのがモンテスキュー『法の精神』。イングランド国制讃美のテクストから権力分立論のテクストへと変貌。受容側のさまざまな思惑や偶然から、歴史的なモンテスキューの姿が明らかになる。