ぽすとろる

@posstroll.bsky.social

ロマンホラー!

真理りま編、最初はフェミニズムとかウーマンリブの話をするつもりだったんだけどイマイチ筆致が跳ねなかったので開き直って「えー、当初の予定を変更して『堀江美都子と僕』をお送りします」みたいな開き直りがあってあんな感じになったと踏んでる

劇光仮面の真理りまVS百目舌郎編が山口貴由の堀江美都子への信仰を再確認する話だったんだと思ってる。結論が「他者の痛みがわからない僕だけど貴女だけに仕える獅子でありたい」なので

罪子が、堀江美都子が、「葉隠くんは負けないわ」と信じる姿を描ければこそ、覚悟は迷わずに正義を邁進することができたが、『エクゾスカル』に罪子はいないし、今の山口先生はまだ罪子を描けるだろうか 描いても死なせてしまうのではなかろか

このアカウントはいつも「ある時期以降の山口貴由作品は覚悟のススメを大団円で終わらせてしまったことへの贖罪を駆動力としており、ハッピーエンドが担保されているようなものはヒーロー精神として不純という信念が現在の(ともすれば投げ出し癖と揶揄されがちな)作風を形作っている」という話をしているのだけど、もしかしたら同時期(97年)のジョジョの「覚悟とは暗闇の荒野に進むべき道を切り開く事」は覚悟のススメへのアンサーメッセージだったのではないかという説をいま思いついた

子供の頃に思いついたようなアイデアは、普通は大人になるとそれができない理由とかがわかってくるのだけど、「広告には制作会社の表記を義務付けろ」については今でも絶対そのほうがいいと思ってる。これはたしか「オレの彼女は超アムロ」の広告を見た時に思いついたのですが

まあ、ああいうのが例えばディーエルサイトの個人作品として「ある」ぐらいならまあいいかなと、感覚的には思うけど(おれの考える表現の自由の防衛ラインはそのあたりまで)、ヤンマガはちょっとだめだよね。天下の講談社の偉い人がゴーサイン出してお墨付き与えてるわけだから。エリートが高い給料もらってるのは社会に対して責任のある判断をすることへの報酬なので

なにかしら自分にとって受け入れがたい振る舞い状態にある人を、やんわり否定したいということ自体はまあ普通だとして、そこで「思想が強い」という言葉を使うのは悪手であることが多い。「思想が強い」の対義語は「信仰が強い」なので

cdbさんのこと、トランプや高市の批判をするときは基本に忠実なコンパクトで脇を締めたバッティングをするのでつまんねーなと思ってるけど、特定の球種※が飛んできたときだけは自分の打順でもないのにベンチから飛び出してきてものすごい大根切りをするのでおもしろい人だなと思っている ※表現の自由無謬論、女に叱られた、など

表現の自由は意義的な面で言えば社会のあり方に対してのBプランやCプランを温存できることがそれであるのだが、表現の自由はCプランを即座にAプランに取って代わらせるためのショートカットなどでは決してない。以て瞑すべし

それ関連で身内のチャットログを見返したら「私的な表現への公的介入は抑制的であるべきだとしても、公的な表現の私的水準へのすりよりを許容するのは表現活動全体にとってプラスにならないたんなる甘やかし」とか書かれていたが、まあつまりここ数日の話はそういうことを言っている

おれの知り合いは表現の自由無謬論的なものを批判する際に(つまりcdb的なものをバカにする際に)「そこにココロザシはあるのか」ということをよく言うのだが、みい山の話をするときは「カワイイを絡めて露悪でバズる程度のkokorozashiしか持ち合わせていないくせに」と表記がヒートアップしていた

これは何年か前に読んだハンチバックで書かれてた「現代社会は障害者に対する手厚い福祉がありその恩恵に自分はあずかっているが、その裏に障害者を世間から見えなくしたいという意図は確かにある」というのを見て思い出したのですが

ガクセーの頃、知り合いが言ってて印象深かったのが「私は電車の中とかで障害者と思われる人を見た時に目を逸らさないようにしている、というか目を逸らすことができない、ガン見してしまう。ここで目を逸らしたら、障害者を透明化することで社会を維持しようとする空気の力に負けたことになってしまうという恐怖がある」というので、当時のおれは素朴だったので「そんなにガッツリ見られたら相手も怖かったりするんじゃないですか」などとヘタレの回答をしたものだが、まあ今になれば、その行為自体の良し悪しはともかくそこに伴うココロザシはわかる。つまりそれぐらいのことが言えるのであればおれも話はできるがたぶんそうじゃないよね

スリザーリンクのアプリが数日前に急にアップデートされて完全新規グリッドが導入されたのでうぉおーと大興奮しながら解いていたら20問目で「このグリッドのこれ以上のプレイは課金です(360円)」と言われてしまった。ま…まあ十数年前に500円ぐらい課金しただけでこれまで5000問ぐらいは解いているはずなので文句を言う筋合いはないのだが

おれはマガジン系の悪口を見ると嬉しくなる気質をしているので、むかしのイン殺に書いてあった「マガジンの誌風をひとことで言うと『小賢しい』ですが…」みたいなのをずっと覚えている

でも「露悪系ネタで一瞬バズって社会派を気取るけど、すぐに忘れられてひっそりと終わっていく漫画」はヤンマガのお家芸とも言えるので、割れ鍋に綴じ蓋だと思う

ユーチューブのホーム画面に岡田斗司夫が出ないことを日頃の行いの良さのあらわれとして自慢していたが、久しぶりにトップに斗司夫が出てしまった。たぶんこれはサピエンス全史批判を観ちゃったせい

あっついので外に出るときはずっと頭にタオル巻いてて、帰ってきて脱ぐときは毎回「やりましょう…SLAM DUNK(15) 天国と地獄 完」って言ってる

露悪的な漫画の話とかもそうだけど、ああいうのが「ある」こと自体の問題とは全く別次元で、エリートなはずの人がそれを表舞台に上げる判断をしてしまうことの問題のほうが問われるべき。社会はダメな人がダメなことは織り込んだ上で回っているが、ダメではないはずの立場ある人がダメなことをすると壊れやすい

おれ個人としては西村博之本人がどうこうよりも、およそ10年前ぐらいに「あの人は今」ぐらいの存在になっていた西村氏をテレビに引っ張り出した人が、おそらくテレビ朝日まわりにいるんだけど、その「犯人」が誰なのかに興味がある。デカン高原の犯人は綿花

ちいかわの島編で島二郎が登場したとき、「支えを失って孤立した主人公が初出の老人キャラに出会う構造は寄生獣と相似しており、これは物語の終盤において読者がフィクションの中で得た収穫を現実に持ち帰る際に、現実で使える教訓への翻訳者として外連味のない年長者が採用されている。銀の手は消えない」みたいなことを言ったけど、1ミリも当たってなかったからね