あままこ(amamako)

@darakeru.com

差別に投票しない / Japanese blogger. Sociology/Programming/OTAKU メールアドレスはamamakoあっとdarakeru.com ブログは https://amamako.hateblo.jp noteは https://note.com/amamako twitterは https://twitter.com/amamako でした(閉鎖済み) 割とセンシティブの絵をRPすることもあるので、それが苦手な方はフォロー非推奨

こういった概念は、たしかに抽象的な面があるのでとっつきにくいのはそうです。しかし一度理解できれば、さまざまな歴史上の知識がその線に沿って整理され理解できる、覚えやすくなるという大きな効果もあります。これで最近話題の「高大接続」できないかなあと思ったりもしますが、高望みでしょうか。 補足。件の出版社は文春だという情報があり(他にソースないですが)、だとすればちょっと寂しいとはいえるかもしれません。文春も歴史サブカルものでは司馬遼太郎を筆頭に相当稼いできた出版社ですから。 x.com/neiuport28c/...

neiupoert (@neiuport28c) on X

文春の入社試験で、約1000人の応募者のうち「山本五十六」を知っていたのはわずか2人だったという。 出版社を志望する学生たちでさえこの状況なのだから、現代の若者における近現代史の知識量は一体どうなっているのだろうか。

x.com

ここまで読み「曲がりなりにも日本近代史を教えて研究する専門家が、歴史の知識というお題でイカれたサブカル語りばっかりしているのだ」とお怒りの方もおられるでしょうが、私はこういったタイプの知識の伝播は、大河ドラマをはじめとするコンテンツが主と考え、だからサブカル語りをしてきました。 小中はともかく、高校の歴史教科書に載せるなら、山本五十六よりも「通俗道徳」とか「仁政イデオロギー」とか「近代家族」とか「20世紀システム」とか、もっと良さげな概念はいくつも思いつきます。もちろん、高校の先生が「高校生には難しい」と仰るのでしたら、今まで通り大学でやりますが。

x.com/ktsujino/sta... この話について「歴史、とりわけ近現代史を知らないのは嘆かわしい」という声が多数寄せられているようですが、そもそも山本五十六はそれほど重要な歴史事項ではないと思います。有体に言って五十六の知名度が若年層に低い最大の理由は「コーエーが『提督の決断』を出さないから」です。 私はいちおう歴史教育を仕事にしていますが、アジア太平洋戦争がどのようにして起こったかという流れを説明する上で、山本五十六の名前まで出す必要はあまりありません(彼は海軍大臣でも軍令部総長でもない)。それはややサブカル的な戦史知識に属する面が強く、今の歴史サブカルといえばゲームです。

辻野 晃一郎 (@ktsujino) on X

ある出版社の入社試験で、1000人の応募者のうち山本五十六を知っていたのはわずか2人だった、という逸話を聞いた。今や「日本の歴史を知らない日本人」がマジョリティになりつつあることを象徴するような話で、慄然とした😱。出版社志望の人たちでこれでは、推して知るべしだろう。

x.com

エンジニアの人とかが自分のサイトをかなり簡素かつ構造化されたつくりにして「速いし余計なものなくて見やすいよね」と評価するんだけど、一般的な人には「見づらい」と思われることがある。この場合の「見やすさ」とは「楽しさ」に近くて、あまりに簡素なページは「楽しくなさそう→読んでいきたくならない→読みづらい」と感じられるんだと思う。

「関西人は4280円が言えない」というのがSNSで話題になっているそうなのだが、それって関東大震災の時の「15円50銭」と似ている発想で、ちょっと話題にする危うさを感じるな。

新潟から日本海に沿って北上していると、稲田の大きさが地域によって全然違って、そりゃ同じ米農家でも農政についての意見は全然異なってくるわなと思ったり。

知的好奇心なるものが無条件に「持って当然なもの」「持つのが好ましいもの」とされる風潮が、昔から僕は大嫌いなのだけれど、それって好奇心云々より、「知的」の方の恣意性こそが問題なのかもしれないと、ふと思う。 例えば「自分は他人の醜聞・ゴシップに対する好奇心が旺盛です!」というようなやつを尊敬するやつはいないじゃん。 でも、好奇心という点で言うなら、「宇宙の果てがどうなってるか知りたい」という話も、「AとBが不倫しているのか知りたい」という話も、好奇心としては同じなはずなんだよ。それなのに前者は尊ぶべきものとされ、後者は卑しむべきものとされる、その差が、納得いかないのかもしれない。

あと本作は、単なる人魚つながり以上に『リトル・マーメイド』と比較すべきだと思いました。実写版の『リトル・マーメイド』は、各所で述べてきたように、人間と人魚の融和(人種の融和)をテーマとしつつ、食べていい魚と食べてはいけない魚の差別は温存するという問題を抱えていたのですが、『ちいかわ』は「人間とそれ以外」の境界線をおそろしく不安定に踏み抜いている。今回はそれが本当に不穏な形で実現しています。そこには(LMと同様)障害/健常の区別というさらに不穏な問題が重ねられているように思える。実際、原作も「能力」へのオブセッションが感じられる。この問題と上記の新自由主義の問題は交差しているのではないかと直感。