蝸牛

@dendenfish.bsky.social

読書リハビリ中。

鬱でたびたび仕事を休むようになった頃は、家にいてもいたたまれず、焦燥が募るばかりだった。もちろん読書の余裕などないのだが、それでもたったひとつ例外があった。ハヤカワSF文庫から出ていたカート・ヴォネガットの小説だけは読めたのだ。飛ばし読みに近い読み方だったが、枕元に積んだ記憶がある。結局、僕が読んだSFの9割はディック、ヴォネガット、それからバラードだなあ。

ミランダ・ジュライがデビューしたばかりの頃、なんとなくソフィ・カルを重ね合わせて見ていたものだ。この二人は今や対照的な道を歩んでいて、ソフィ・カルが相変わらず宙を漂っているのに対し、ミランダ・ジュライは文字どおり「はいつくばって」いるらしい。それでも、奇想天外なことを突然思いつく性格という点では、やはり姉妹のように似ている。

若い頃にふと立ち寄った小説や漫画から、思いがけず深い影響を受けているのに気づいて、たじろぐことがある。当たり前のようだが、僕という人間を構成する要素の大部分は、意識の底に沈殿した微細な破片、粒子、埃、切れ端のようなものであり、はっきり記憶しているのはその上澄みのようなものにすぎない。

今週の木曜はまた例のがん手術後の定期検査がある。それにパスすればめでたく4年間を延命したことになる。消化試合が4年延びるわけだ、などと油断している時に限って不意打ちを食らったりするものだが、不意打ちか、不意打ちを食らったらどうするんだ、あ?と自分を問い詰めてみたい気持ちもある。だいいち、偶然に起こるものでもない。4年前に蒔いた種が発芽するだけの話ではないか。それを今さら、不意打ちだなどとじたばた騒ぐ方が馬鹿馬鹿しい。

なんだか疲れたな。政治の話じゃなく、ただ、ひどく疲れたという思いがある。消化試合の生。長すぎる。苛立っているが、何に苛立っているのか分からない。自分にも、自分を嘲弄する者たちにも、激しく苛立っている。愚劣さ。他者の、自分自身の、愚劣さ。偉そうに言いやがって、馬鹿が、と思い、その馬鹿が自分自身と二重写しになり、すぐ区別がつかなくなる。鬱。僕は本当に鬱だろうか。薬が効いた実感が一度もないことを考えると、たぶん鬱ではないのだろう。鬱であろうとなかろうと、この苛立ち、この疲労感は確かに実在している。

突発的にアンケートを作成してみました。〆水曜まで。『jem』主宰の私は、日本文学を多く読んできた人間ではありません。そんな中、ここ数年、海外の日本文学翻訳家に「だれかおすすめの作家はいないか」とひんぱんに聞かれるようになりました。ジャンル問わず、「外国語に翻訳されてほしいと思う書き手」の名前を教えてください。回答期限が短期間となっておりますが、よろしくお願いいたします。 docs.google.com/forms/d/e/1F...

『jem』アンケート(回答期限:9/2(水))

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また気分が妙に落ち込み始め、おやおや、と苦笑する。浮いたり沈んだりしながらここまで生きてきたが、ついに沈みっぱなし、という時が、いつかは、あるいはもうじき、来るに違いない。もう10年以上も、怒りが重石になって浮力の回復を妨げている。怒りは決して消えることがない。それでも煉瓦を引きずるようにして浮上するのだが、いつまで続くことか。

千葉の豪雨で、以前住んでいた佐倉市はだいぶひどいことになった。もともと雨が降ればそここの低地に水がたまる場所だし、そこを川が流れもする。豪雨となればむろん浸水するだろう。それにしてもこちら側は被害がなく、線状降水帯がいかに局地的であるかを思い知らされた。突如として出現し、ふっと消える。妖怪に出会うようなものだ。

*お知らせ* 昨年冬に編訳・製作したエミリー・ディキンスン詩集『斜めに射し込む光』の詳細やお取り扱い店について、こちらにまとめました。 刊行から半年以上を経て、多くが旅立ち、遠くまで届いています。新たに気にかけてくださる方がおられましたら幸いです note.com/wakako_stone...

エミリー・ディキンスン詩集 『斜めに射し込む光』|Wakako

エミリー・ディキンスン詩集 『斜めに射し込む光』(私家版) 編訳 石倉和香子 絵  日香里 2025年12月10日  500部発行(手書きシリアルナンバー入り) 全52篇収録 B6判144頁 税込3,000円 *お取り扱い店は下部へ 「斜めに射し込む光」に寄せて There's  a certain Slant of light, Winter Afternoons ー That ...

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どうせ明日は休みだからと、有楽町で『大統領のケーキ』を見てきた。予想どおり凄い映画だった。2時間弱で地獄めぐりをするようだったが、地獄と呼ぶにはあまりにも美しすぎた。

怒りや不安が止まらない時は、それが悲しみに変わるまで辛抱強く待つ。待ち時間は怒りや不安の大きさによって異なるが、必ずそれは悲しみに変わる。悲しみに変われば、止血は完了である。悲しみは瘡蓋にすぎない。おのずと剥がれ落ちる。

何事につけても、境界の領域にあるもの、あわいに横たわるものが好きなのだと思う。無調ではなく、かといって完全に調的というわけでもない音楽(ベルク、フェルドマン)。前衛をひた走るより、むしろコマーシャル・フォトに近い、しかし絵葉書のようなクリシェには陥らない写真(上田義彦)。言葉のごつごつした手触りを持つ、非凡な文体で書かれ、かつ多くの読者に開かれた小説(大西巨人、大江健三郎)。美しいが、美しいの一言で片付けては何も語ったことにならない映画(エリセ)。

中上健次が夢に出てきた。布団の上にあぐらをかき、やくざの親分といった風体で、何人もの子分を背後に従え、病気で痩せてはいたが、いたって元気そうだった。僕は初対面ではない気がして、覚えていらっしゃいますか、と言い、言った途端に泣きたいような気持ちになった。中上は、是認とも否認ともとれるような、おう、という声を発したきり、僕の心を推し量るような目で眺めていた。

主人公が彷徨を続けること、日常の些事と記憶を執拗に記述すること、その記述が最終的には主人公の孤独に結びついていること。こうした表面的な特徴から、ハントケはゼーバルトに近い作家なのではないか、と憶測して半分ほど読み進めてきたのだが、ともかく笑い出してしまうほどゼーバルトとは異なる作家だということだけは分かった。頓珍漢だと知りながら敢えて言えば、むしろハントケは、僕から見てヌーヴォー・ロマンに近いところにいる作家のような気がする。そういう感触がある、というだけで、確信はまったくない。

原口昇平訳『世界が眠っているあいだに』を無事入手した。この美しい本は、傍らに岡真理の『記憶/物語』を置いて、大切に読む。

ペーター・ハントケを読んでいると、高熱を出したまま街の中を歩いているような感覚に襲われる。自分の周囲で起こるあらゆる出来事が遠くに見えるかと思えば生々しく接近し、日常と非現実の間を往還し、痙攣的な感激と不安が絶え間なく交替し、過去と現在も入り乱れる。やや病的な感性がそれを克明に言葉へ写しとる。トゥーサンのようにユーモラスでもあるが、やや寒気を覚えるほど不気味でもある。その振幅が、つまりハントケの描く孤独なのであろうと、ひとまず仮定して読み続ける。愉快な読書ではないのだが、しかし目を離すこともできない。読んでいるのは『長い別れのための短い手紙』だ。