30分の玩具CM制作を任されているというプライドや矜持を持って欲しい。所詮は玩具のCMだから、なんて言うのは、良い仕事をした人がのたまう謙遜や自虐であってさ。
jun758
@jun758.bsky.social
ゲーム業界でお仕事して20余年。雑多に色々やります。趣味もゲームと玩具とプラモです。(リスト機能が整理されるまでフォローは控えてますスミマセン)
インカムの悪いゲームは撤去される。漫画は人気がなければ打ち切りになる。それに比べて、他人様からお金を出してもらって、好き勝手に作って、それどころか金出してくれたスポンサーに反旗することが勲章みたいになってる業界、甘いなぁと思う。だったら自分の金でやれよ…
家庭用ゲームという「箱商売=夢と期待を売る商売」になって少し変わって、作品だの作家性だのを謳う時代が一時期訪れたけど、それもまた終わった。日々お金入れてもらってガチャを回してもらわないことには、作家性のある物語とやらも語りきることはできない。
いにしえのビデオゲーム、ゲームセンターで100円玉を稼いでいた頃のゲームには「売れなくてもいい」なんて発想は1ミリもなかった。ともかく100円投入してもらうことに必死だった。作品だと名乗る以前に、100円が稼げなければ世に出る前に葬られた。
そしてアニメ制作現場からは忌み嫌われていたと言うけど、そもそもの事業目線が全く噛み合ってないのだから当たり前だったと思う。極端に言えば「いい作品ができるなら売れなくてもいい」とすら思ってる人たちと、「たくさん売れることで事業を成功させる」では大きな隔たりがある。 実際にはどんなに良質な作品でも、お客さんに見られなければ失敗であり、見られるようにする魅力が欠けているとも言える。それすなわちコンセプトが悪い。オモチャがすごくても作品が面白くなければやっぱり売れない。それは両輪関係であるわけで、それだけオモチャと絡めた映像作品ていうのは高度なんですよ。
村上克司さん亡くなったけど、やっぱり玩具にインダストリアルデザインという概念を適用して、オモチャを子供だまし的なジャンルから一気に意識を引き上げた功績は大きいし、デザインジャンルのオリジネイターと言って良いかと思う。そして何よりも揺るぎないコンセプトとユニークなアイデアを思いつく脳と具現化する能力が結びついた超人なのであの時代においては唯一的な存在だったんだろうなと思う。 伝え聞く素っ頓狂なエピソードも、すべてのロボット玩具に共通する、それまでなかった面白さの提供というベネフィットを満たすためのものだと思えば実は概ね納得がいくのだけどね。
勝手に倒れて壊れない、子どもが動かして壊さない、尖りや挟みで子どもを怪我させない。 アニメのキャラデザイン、特撮のプロップデザインである前に、前提としてインダストリアルデザインなんですよ、やっぱり。
それとはまた別で、スタンド使わないと飾れない、二本足で安定して自立することもできない、(子ども向けの)ロボ玩具ってどうなんよ?という視点もある。
禁断の惑星から続く「SF感」「ロボット像」「ロボット玩具(古くはブリキの玩具)」の流れがあるわけです。シュッとして人間と同じプロポーションでキメポーズするロボだけじゃなくてさ。
自分にとってのスターゲイジーパイはどれかな…と思い出すと、やっぱりグランドバースだな。明確に「ダサい」「これは無い」「駅弁売りか」とボロクソだった。ロボであれば何でもほんのり欲しいと思う自分が、明確に要らねーと感じた始めての玩具じゃないかな。
変形ロボット、ほぼ同じの3個セットで4万4千円。もはや高いのかどうかもわからぬ。ひとまず1個は欲しいのだが…(まだ買ってない)
うちの父方一族の通夜は、酒いっぱい呑みながら故人の想い出話を楽しく語り合う、明るくて愉快な夜やったんよね。すごかったなーアホだったなーとそういう話ばっかりドンドン出てくる。俺はそれを聞くのが好きだったので、自分だけでも継承しようと努めている。
俺は今日はひとつのことしか書いてない。つぶやきは全てひとつながり。なのだけど。うち1個の譬え話だけが千切れて、前後の文脈関係なく遠くまで流れていく様は、大昔のツイッターのようで少し懐かしいな。
ヒロさんの仕事のやり方には色々な意見があるだろうけど、自分で定めたであろう裏テーマ(まるで隠してないので裏じゃないが)を粛々と着々と達成しつつあるのが、本当に意思の強い方だなと思う。
お前は特撮の人かアニメの人かと問われたら、実はどっちでも無い、が答え。あえて言えばゲームの人。 問いの角度を変えて、玩具の人かプラモの人かと問われたら、これは悩ましい。玩具は絶え間なくずっと好きだけど常にぬるま湯、プラモは何度か沸騰するくらい好き になりスッパリ嫌いな時もある。愛と恋?
幼くして、すごい人として認識した八手三郎と矢立肇の正体を知った時とは、逆ベクトルの驚きがあったんだよねぇ。えぇ!あれもそれもこれも全部!1人のひとが作ったものだった!うそやん!
玩具って、自然と木になってるもの、降ってくるもの、湧いてくるもの、みたいなところがあって、「誰か」が作っている物って印象がなかったのよね。漫画は漫画家が描く、アニメロボも実はデザインしている人がいるらしい、あたりまではすぐだったのだけど、玩具を作っている人を認識したのは少し後だった。
DXダイラガーが来たので、俺が欲しいもの…というより「必要なもの、棚にあるべきなもの」は大体揃った。残るはパーツ完品メッキ美品のレザリオンくらいなのだけど、それ高い金出してまで欲しくないよな、という大問題があり…
時代遅れだなぁ、ダサいなぁ、って感覚はちゃんとあったのよ。そうして何十年かが経過して、俺も青年になり大人になりオッサンになり、つい2週間前にようやく我が家に来た。
誕生日やクリスマスに買ってもらった1つの玩具が、一気に15個もの玩具になったら嬉しかろう…という発想自体が、既に当時の子ども(俺)の気持ちとはズレていたように思う。 デザインも(今みると典型的で素敵なんですが)なんか古臭いなぁと。80年代初頭っていうのは、そういう時代だったんだ…
メートル原器のようなところがある。その1メートルは長いか短いかを問う意味はあまりなくて、うちに定まった1メートルという感覚を物指しとして対象にあててみて、こっちのが長い、こっちは短い、と比較していく感じ。
つい一昨日も「いい映画だったけど、レオパルドン出てこなかったな…」なんて思いつつ、「ビールのー谷間の暗やーみにー」って口ずさみながら帰ったのよ。全然、思い出や過去形じゃないの。
子どもは大きくなっていく。オカンが作った服を「こんなダサいの着れないよ。次から友だちと買いにいくよ」と否定する。おばあちゃんが一生懸命作っくれたニシンのパイを「これ嫌いなのよね」と思いごと切り捨てる。そういう時期があるし、それでいいと思う。 そうして大人になって、後から、親がちゃんと育ててくれたことや、じいちゃんばぁちゃんに愛されていたことに気づくのだ…